誰でもAIを使える。誰でも、少し前まで一部の専門家しか触れなかった先端技術に手が届く。
それは、良いことのはずだった。
取り払われたのは、情報の壁ではない
SNSとAIが広めたのは、知識と技術だけではない。使い方も、応用の仕方も、隔たりなく共有されるようになった。
これは、情報の壁がなくなったということではない。責任を持てる人と、持てない人のあいだの壁が、なくなったということである。
知識を持つことと、その知識をどう扱うかを引き受けることは、本来別のものだ。これまでは、知識に届くまでの距離そのものが、ある種の歯止めになっていた。その距離が消えた。
規制は交付されている。それでも追いつかない
各国でAIの規制は進んでいる。法律は作られ、施行される。
しかし、一つの規制が交付され、施行されるまでの数年のあいだに、技術はすでに次の段階に進んでいる。これは、担当者が怠けているという話ではない。規制という仕組みそのものが、技術が拡散していく速度に、構造的に追いつけないということである。
「規制が遅い」のではない。規制は、遅れることしかできない仕組みなのだ。
多くの論点は、規制を急げに向かう
この現実を前にすると、多くの議論は「規制をもっと急ぐべきだ」という方向に向かう。
しかし、AI責任構造の視点から見ると、本質はそこにはない。規制を急げば止められる、という前提そのものが、もう成立していない。
急いだ規制は、急いだ分だけ粗くなる。粗い規制は、抜け道を残す。抜け道は、また次の無秩序を生む。この繰り返しに、終わりはない。
二つの設計
規制が目指しているのは、「使わせない設計」である。入り口で止める。危険なものに触れさせない。
AI責任構造が目指しているのは、それとは違う。「使ってしまった後でも、誰が、何を、どう判断したのかを残す設計」である。
止められないことを前提にする。だからこそ、判断した人間の名前と責任が、後から必ず追える形にしておく。規制が入り口を守るものだとすれば、AI責任構造は、使われた後の足跡を守るものだ。
境界は、法律だけでは引けない
法律が届く前に、技術はもう現場にある。
だとすれば、境界を引く場所は、法律だけであってはならない。AIを使うその場所、その運用のなかに、あらかじめ責任の構造を埋め込んでおくしかない。
規制を待たない。規制が追いつく前に、使う側が自分の手で、判断と責任の在り処を設計しておく。
AI社会に必要なのは、より賢いAIではない。責任を持って使えるAIである。